何もしないという“わざ”

―文献名-
Iona Heath. The art of doing nothing, European Journal of General Practice, 2012; 18:4, 242-246

-要約-
他者からの知恵
・ジグムント・バウマン(ポーランド出身の社会学者)は、その著書の中でカール・ヤスパース(ドイツの哲学者・精神科医)の言葉「私たちの時間は、どのようにそれを使うかという観点から考え得られている。何もしないということがあるにも関わらず。」を引用している。
・メアリー・ミッジリー(英国の哲学者)は、その書籍の中で次のように強調している。「私たちの最近の膨大な技術(その多くは役立つしそうでもない、そして恐ろしいほど資源を無駄にする規模)の発展から生じる新しい力に魅せられた状態を超えて、私たちがそのニーズが増大する環境から抜け出すのは至難のわざである。なぜなら私たちの時代は抑制するのではなく継続的に向上することに著しく夢中になっているからである。」
・ウイリアム・カローズ・ウイリアム(米国の詩人でGP)は、医師たちがこのひどい状況にいとも簡単に屈してしまうことを、彼の短編集にこう書いている「我々に迫る圧力で、私たちは最終的に全ての民衆に全てを行う。そこから逃げようとしても、徐々にスピードが落ち、最終的には泥んこレースの中になる。どこに行くのかもわからず、そこから抜け出す時間もない・・・」
●上記のように、GPとして働いている皆はこのような現象を認識しているのではないだろうか?立ち止まる時間なく、聴いたり考えたりする時間もなく、トイレに行く時間もなく、一日中を走り回っている
・エルビン・シュレーディンガー(オーストリアの物理学者)は、何もしないというわざの力の重要性について次のように記述している。「誠実に知識を調査するとき、あなたは割といつまで続くかか分からない無知に我慢をしなくてはいけない。この要件が確固たるものとして立った時にはそれどころか、更に正しく理解したいという次なる探求への刺激と道路案内となる。これは自然であり科学者に不可欠な性質である。」
●考えを一時停止すること。これは無知と不確実が一般的なGPにおいて重要である。結論として、おそらく直観に対抗し、医学において、何もしないというわざは積極的で、熟考されて、慎重なものである。圧力に対抗するために解毒的に行うことには、多くの種類があるので、下線毎に紹介する。

聴く・気づく
・同時に熱心に正確に聞きながら行為を行うのは不可能である。先ほどのウイリアム・カローズ・ウイリアムは、GPにおける聴くことの強さをこう書いている。「そこに真実がある。私たちが聴いている全ての瞬間に、稀な要素でも、想像がつかなくても、それが事実・・・」
●これはGPを、深い感情や不安を診察室で表現しながらもがいている患者の人生の最接近者として描いている。キャサリン・ジェイミー(英国の詩人)は、必要な関わり合いと聴いて気づくことへの集中力は、祈りを捧げる人の考えに近づくと考えている。
・彼女のバードウォッチングの体験を読むと、GPに必要なある種の受け入れる準備にとても近いように聞こえる。「分析するのではなく、気づくこと。脳の一部は『あれは何?鶴?コウノトリ?バカにしないで、奇妙な鷺じゃない』と、ごちゃごちゃと大声で喋っているが、同時に自分の内なる声を静かにさせるべきである。あなたは後から整理して修正ができ、診断と分析ができる。しかし、今は心を開いて、風の中で首をかしげる様や、その色彩、不運な形を頭に焼き付けなさい」
●今は、何もせず、患者に心を開く。彼らの何かに気づいて、それを頭の中に入れる。分析や診断は始めない、早すぎる。
・ポーランドの偉大な詩人のZbigniew Herbertは、聴くことに注意を払う難しさを次のように書き、私たちにその責務を教えてくれる。「何もできないことに反発して、彼の対抗手段は乱用だけであった。希望がないにもかかわらず、援助を受けてしかるべきで、賞賛と敬意を理由に。」

考える
●患者は診断を必要としているだろうか?それは患者を本当に助けうるだろうか?どんな種類のケアが、その時・その場に適しているだろうか?
・ハンス・ゲオルク・ガダマー(ドイツの解釈学の哲学者)は、考えるということがどれくらい重要で重いものかを次のように教えてくれる。「考えるということは、それ自身が魂の中で対話をしている。これはプラトンが考えることについて述べたものであり、その意味とは、理解できない問いが生じた際、それについて考えることは我々自身に同時に与え・与えられる答えを聴くことである。」
●EBMにおける善意からの強調されてきた遺産は、医療供給の案内を設計するガイドラインを急増・拡散させ、パフォーマンスに連動した支払いを動機づけ、考えるための小休止なしに処方を継続する姿に変えられてしまっている。

待つ
●待つということはしばしば勇気がいる。診断や治療のツールに、自然に何が起こるのかを見るために、時間を使うことがある。これらは何もしないというわざの基本的なスキルとなる。過剰診断や過剰治療の魅力的な罠に陥らないためにも、極めて重要である。
・NZのGPで詩人のGlen Colquhounの一つの詩が、待つことの重要性をうまく表現している。
「占いのますます洗練された方法は、医学の実践において使われている。・・・次に何が起こるかを見るのを待つことによって。」
●次に何が起こるのかを待つことは、高価で威圧的な技術が利用可能で増大しているのに直面しているからこそ、最も洗練され高い教養のある方法となる。

そこにいる・証人となる
●ただそこにいること。患者のそばにいること。
・GPを表現したベストな書籍と私が考えている、果報者ササル(A fortunate man)を書いた、ジョン・バージャーは次のように書いている「彼は病気にある人を治療するよりも、彼らの人生の客観的な証人となっているようだった。」
・Zbigniew Herbertの詩を英訳したカーペンター夫妻は、「私たちの自由や正確さを決めるのは、真に周囲の苦痛を受け、その証人でいることに耐え、それに対して抵抗し続けることができるかどうかです」と述べている。
●家庭医にとってのこの態度は、アドボカシーへの責任ある活動と同様である。私たちは表現することができず、声を上げることのできない人たちの代わりに政治家や政策立案者に声を上げる必要がある。・・・アドボカシーは構造的な治療方法となる。ノルウェーで出会った若い循環器医の歌う歌詞の中で、「‘I know I can see you through this」が繰り返し流れる時に、ゆっくりと気づいたことがあった。それは結束と逃げないという約束を示した関わり合いの宣言に聞こえた。
・アーサー・クラインマン(米国の人類学者で精神科医)も同様のことを次のように述べている。「共感的な証人は、病を持った人間といるときの基本的な関わり合いです。そして、何らかの気づきやその経験への価値付けとなる病いの語りを促進させます。これが医師になることの道徳的な中核でありillnessの体験です。」

害を防ぐ
・これについては2012年の最初の頃の内科雑誌に予想もつかない結論で掲載されている。
・ウラジミール・ナボコフの「人間性の愛おしいところは、誰かが良い行いに気づいていない時に、その人は自分の悪いことにいつも気がついている」という言葉がある。
・私たちは、医師たちが患者にベストしか尽さしておらず、その結果、素晴らしく・満足のあるものを彼らの人生に提供していると確信している・・・このコントロールがつかないポジティブフィードバックのループに捕らえられているように見える。「」

最後に
・何もしないことは、不適当で時期尚早なラベル付けしたり、平凡で人間的な悩みを医学的に扱ったり、無益な治療を開始してしまうなど、さっと結論を急ぐよりも望ましい。
・何もしないというわざの疑問のない利点とその意欲が高いうちに、エメ・セゼールからの警告に耳を傾けよう。「私の体と私の心に注意しよう。あなたの腕組みの全てに注意をしよう、傲慢で想像力に欠けた観客のような態度に注意をしよう。なぜなら人生は壮大な物語ではなく、sea of sorrowは舞台前部のものでもない。人が泣いているのは見せ物の熊ではない。」
・何もしないというわざを養っていこう。しかしそれは観客的な想像力のない態度に避難することではない。

【開催日】
2017年3月22日(水)